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@『世界は分けてもわからない』、分子生物学者;福岡伸一さん
ちょうど波が寄せてはかえす接線ぎりぎりの位置に、砂で作られた、緻密な構造を持つその城はある。ときに波は、深く掌を伸ばして城壁の足元に達し、石組みを模した砂粒を奪い去る。吹きつける海風は、城の望楼の表面の乾いた砂を、薄く、しかし絶え間なく削り取っていく。ところが奇妙なことに、時間が経過しても城は姿を変えてはいない。同じ形を保ったままそこにある。いや、正確にいえば、姿を変えていないように見えるだけなのだ。
砂の城がその形を保っていることには理由がある。眼には見えない小さな海の精霊たちが、たゆまずそして休むことなく、削れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、崩れた場所を直しているのである。それだけではない。海の精霊たちは、むしろ波や風の先回りをして、壊れそうな場所をあえて壊し、修復と補強を率先して行っている。それゆえに、数時間後、砂の城は同じ形を保ったままそこにある。おそらく何日かあとでもなお城はここに存在していることだろう。
浜辺に打ち寄せるある波が、たまたまそこに一回だけに限って、砂粒の代わりにコーラルピンクのサンゴの微粒子を運んできたとしよう。海の精霊たちは砂粒とサンゴの粒を区別することなく、そのサンゴの粒を使って砂の城を補修する。削れた壁、開いた穴、崩れた場所に、砂の代わりにサンゴを詰める。するとそこには何が見えることになるだろうか。
福岡伸一さんの文章を、以前このコラムで取り上げた高橋源一郎さんは「優れた科学者の書いたものは、昔から凡百の文学者の書いたものより、遥かに、人間的叡智に満ちたものだった。つまり、文学だった。そのことを、ぼくは、あらためて確認させられたのだった。」と絶賛しています。なるほど上に引用したような美しい比喩が、分子生物学者の文章に散りばめられていることは、全くもって驚きと言わざるをえません。これは詩だ、おまけに音楽と映像と色彩とが見事に調和した純粋詩(マラルメ、ヴァレリー)と言っていいでしょう。『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書 2007)は、ある意味福岡さんの下積みの研究時代を自伝的に書き表したものと言えるでしょう。しかし福岡さんは、自らの研究生活を中心に据えるのではなく、研究が追い求めているものの時代背景とその現代的意味、研究を成立させる環境とそこに集う研究者たちの関係のあり様を描き出すことによって、ダイナミックなまでにその過ぎた日々を描き切っています。読者である私がいまここで福岡さんに代わって研究しているかのような臨場感を味わわせてくれます。福岡さんは一旦主体である自分を消すことによって、いや見・聞き・学び・実験するその対象を科学的・客観的・徹底的に描き出すことによって、見・聞き・学び・実験する主体としての自分を描いているかのようです。行為し、感覚し、思索している自分こそが、自分であると言わんばかりの文章です。このポジションは、精神医学の言う「関与しながらの観察」(サリヴァン.H.S.)に近いものです。
そこに見えてきたもの、それは生体のもつ動的平衡であり、その比喩として冒頭の文章を並べています。先の二段は生体の細胞のたんぱく質を構成するアミノ酸は絶えず入れ替わっていることを示しています。三段目は同位体(「追跡子」)を使った研究の比喩であり、結局生体はアミノ酸レベルでなくさらに下位のレベル(サンゴの微粒子)で入れ替わっているという事実に繋がっています。
秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない
説明は「エントロピー増大の法則」へと向います。しかしこれ以上私の下手くそな説明は擱きましょう。 未読の方は是非一読してみて下さい。
アンサング ヒーローはこの書の第二章に付された章題です。unsung、つまり詠われないということ は、「<人・業績など>詩歌によってほめたたえられない」という意味です。ホメロスの『イーリアス』や『オデイセイア』で詠われなかったということから来ているのでしょうが、福岡さんはこの語に「縁の下の力持ち」という日本語を当てています。そしてDNAが二重ラセン構造をしていることを1953年に発表して、二十世紀の生命科学史上最大のスターになったワトソン、クリックの影に隠れてしまった、何人かの研究者にこの章を与えています。特にオズワルド・エイブリーと悲劇の研究者ロザリンド・フランクリンの業績を詳述し、福岡さんはこの書(詩)を通じて二人のアンサング ヒーローをサング ヒーローに謳いあげています。

最先端の研究に「データの盗用」「データの捏造」は横行しているし、同業者による論文審査は「腹の探りあい」というのが実情のようです。ジェームズ ワトソンは1968年に『二重ラセン』を出版し、たちまちベストセラーとなりました。翻訳された真新しい本を、当時学生だった私も感動して読んだ記憶が蘇ります。しかし不勉強だった私は二重ラセンのpriorityを巡るその後の論争は全く知るよしもありませんでした。福岡さんのこの書を通して「なるほど、そうだったのか」と今更ながら自分の不勉強に呆れています。それにしても、一歩間違えばスキャンダラスな暴露本といった体を成してしまう内容を、これ程までにアカデミックに書き上げられる福岡さんの力量にここでも感動です。

『世界はわけてもわからない』は同じ講談社現代新書で2009年7月に出版されました。実は私は先 にこっちを読んで甚く感動したので、積んだままになっていた『生物と無生物のあいだ』を慌てて読むことになったのです。では何に感動したかというと、確かにこの感動を言語化するのは難しいのですが、二つの記述が記憶に鮮明に残っています。一つは、国際トリプトファン研究会というものがあり、福岡さんのトリプトファンに魅せられる姿勢に触れられたこと。そしてもう一つは、マップラバーとマップヘイターという区分けの斬新さについてです。トリプトファンはご承知の通りいまをときめくセロトニンの原材料であり、神経細胞が自ら作り出すことのできない必須アミノ酸です。しかし、トリプトファンは代謝されてセロトニンやメラトニンになるだけではなく、神経毒でもあるキノリン酸にもなるようです。これは無知なる故に私にとっては面白い発見でした。福岡さんはトリプトファンをまるで女性の身体であるかのように優しくそして丁寧に記述しています。
マップラバーとマップヘイターの区分けは色々なところに応用できそうです。「マップラバーは鳥瞰的に 世界を知ることがすきなのだ。やっぱりそのほうが安心できる。マップヘイターは世界の全体像なんか全然いらない。私と前後左右。自分との関係性だけで十分やっていける。」「一見マップラバーのほうが理知的で、かっこよく見えませんか? しかし、実は、マップラバーこそが、方向オンチで、道に迷いやすい。山で遭難するとしたらまずマップラバーのほう。」地図が読めない、地図が読めるといったことが、頭の良し悪しに数えられていましたが、どうやら違うようです。その違いは「気質」としかいいようがないのでしょう。
全体は部分の総和以上である
次回のコラムはこの「気質」について取り上げてみます。そして精神医学のアンサング ヒーローにも 登場してもらう予定です。
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