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『作家とその亡霊たち』(現代企画室)の中でエルネスト・サバトは「孤独な芸術家は、逆説的なようだが、適応性に欠け、反抗精神と狂気を保持しているからこそ、人間の最も貴重な特質を守り続けている。時に行き過ぎて耳を切ることがあってもそれが何だというのだろう。」と書いている。そしてゴーギャンがストリンドベリに向けて書いた「生活が病んでいれば芸術だって病んでしまうのが当然です。健全な状態を取り戻そうとすれば、子供や未開人のように零から出直すしかありません。文明とは病に他ならないのです。」という手紙を引用している。ゴーギャンは第二次タヒチ滞在(厳密にはこれは滞在ではなく終の住処となるが)を前にして、ドウルオ館での二度目の個展のカタログの序文をストリンドベリに頼んだが、ストリンドベリからは「『私にはできない』いや『私は欲しない』と答へたい。私はあなたの芸術を摑むことが出来ないし、それを好きになることも出来ない」という手紙が送られてきた。それに対するゴーギャンの返信内容の一部をサバトは引用したのでしょう。結局ゴーギャンは「これほどの輝きの中にこれほどの神秘をおくことが出来たとは、驚嘆を禁じえない」という詩人マラルメの言葉に唯一励まされながら、絶望の中タヒチに再び旅立っていった。
洗濯する女たち、アルル
1987年東京国立近代美術館で「ゴーギャン回顧展」が催されましたが、その際には『我々は何処から来たか』は出品されませんでした。20年前のその当時の私はゴーギャンには親近感を持てないでいました。サマセット・モームの『月と六ペンス』(「これは完全な創作で、ゴーギャンと大して関係はない」と福永武彦さんは書いています)、そしてその福永さんの大著『ゴーギャンの世界』(新潮社 1961)に導かれて展覧会詣でとなったに過ぎません。その点ではストリンドベリの立場に近かった訳です。20年が経ち、私も些か歳を重ねました。今一度福永さんの本を読み直してみました。そして終戦記念日の日に竹橋に向かいました。靖国神社周辺は右翼の街宣車が溢れかえっていました。機動隊も数では負けじと、夥しい人を動員して警護に当たっていました。終戦64年。この日この界隈ではまだ戦争が続いているかの様相でした。お蔭でゴーギャン展は大変空いていて、ゆっくりとゴーギャンを堪能できました。
ゴーギャンの世界を福永さんの本に従って少しくまとめてみましょう。多少章立て、年代は私なりに改変しましたが。「彼の生活は、一人のロマンチックとして、すべて藝術のため、それも彼があまりに遅く発見した彼の藝術のためにある。それを発見するための努力の間に、彼は次々と大事なものを喪って行った。父も母も安定した生活も、懐かしい妻子も、親身な友人も、故郷も、名声も、彼の喪ったものは実にあまりに多く、彼の獲得したものは常に極めて僅かである。最早なし。」
第一章;喪われたもの
第二章;形成、1883年
第三章;タヒチ、夢想と実現、象徴主義
第四章;ゴルゴタにて、我々は何処へ行くか

かぐわしき大地 ノア・ノア挿絵
第一章;
1848年6月7日、ポール・ゴーギャンはパリのノートルダム・ド・ロレット街56番地に生まれる。父はオルレアン出身の「ナショナル紙」の記者。母は閨秀作家フローラ・トリスタンの娘。二月革命とルイ・ナポレオンの大統領当選後、父は難を逃れるため母の実家であるペルーを訪ねようと家族と共に船に乗る。父は動脈瘤のために船中で急逝。母はそのままポールと姉のマリーを連れてペルーに行き、リマ市に6年間滞在する。ポール7歳の時、父方の祖父の遺産問題で母と二人の子供はフランスに戻り、オルレアンで生活する。17歳、エコール・ノルマルへの進学希望を取りやめ、見習水夫としてルツイターノ号に乗り組む。19歳、母親死す。20歳で海軍に登録され、水兵として23歳まで生活。除隊後ラフイツト街の株式仲買商ベルタンの店に勤める。以後11年間は有能な株式仲買人としてこの店で働く。同僚のシュフネッケルに勧められて絵を描き始める。25歳、デンマークの女性メットと結婚。四男・一女の子を儲ける。1874年にはピッサロと知りあり、その後多くの印象派画家と知り合うことになる。時代は印象派の最盛期だった。ゴーギャンは徐々に印象派展覧会に出品するようになり、ユイスマンスの批評を受けたりするようになる。
第二章;
1883年1月(35歳)、画家として独立する決心をして、妻や友人の知らないうちにベルタン仲買店を辞める。ピッサロのいるルーアンでゴーギャンは一家をあげて生活を始めた。しかしルーアンの生活は惨めな失敗だった。一枚の絵も売れず、一家は危機に直面し、1884年にはコペンハーゲンに移り住んだ。コペンハーゲンでの生活も、結局はルーアンと大差なかった。「私は深くデンマークを憎む。その風土も、その住民も。」6歳になった次男のクロヴィスだけを連れて1885年6月パリに舞い戻った。その1年後にはクロヴィスを寄宿に入れ、それからゴーギャンの単身での放浪と呼んでいいような生活が始まる。ゴーギャンの妻への手紙からするなら、ゴーギャンは一貫して妻への深く豊かな愛を示していて、かつ家族が一緒に暮らせる幸せを求めていたようだ。しかし運命はゴーギャンの思いとは全く逆な方向へと向かっていく。ポン=タヴェン、アルル、ル・プールデユとパリとの間を何度か行き来し、ゴギャンは独自の画風を作り上げていく。このことは印象派から徐々に離脱していくことを意味していた。『ヤコブの天使との闘ひ』に代表される綜合主義(絵画的象徴主義)の誕生。後のナビ派誕生のきっかけをポール・セリュ
ジュに与えたりと、ゴーギャンの若手画家への影響は甚大なものとなる。圧巻はアルルでのゴッホとの
2ヶ月間の共同生活であろう。ゴッホは、スーラやシニヤックのやうな点描派の流れの中にあって悩んでいた。菫色の上に黄色を置くという補色を使う方法では、画面にラッパの音色が欠けていた。そこでゴギャンは「菫色の上に黄色」ではなく、「黄色の上に黄色」を置くことをすすめ、それが「太陽の光に照らされたひまわりに次ぐひまわりの連作」となって、ゴッホに決定的な影響を与えた。しかし二人の共同生活は極めて短期間しか続かなかった。ゴーギャンは逃げ出すことを考え、ゴッホは友人をどうしても引留めようと考えていた。そして例の名高い事件が起こる。その2年後1890年7月ゴッホは自殺した。「この時期に死ぬのは、彼にとっては一種の幸福なのだ。それは彼の苦しみに終りを告げさせた。」一方ゴッホは「「あなたも私と同じく、とにかく不幸な人間なのだ。」とゴーギャンに宛てていた。
1889年パリで万国博覧会が開催され、ゴーギャンは中でも特にジャヴァ藝術に心酔する。それを契機にゴーギャンの中に熱帯が確実な夢想として生き始めた。技法は完成に近づいていたが、まだ彼は真のモチイフを見出していなかった。『黄色いキリスト』は幻想的かつデコラチフな作風の完成を示していたのだが。
第三章:
1891年ゴーギャンは遂にタヒチ島に渡る。43歳である。彼はそこに1893年まで2年間居ることになる。
「このタヒチ島の中でなら、私は美しい熱帯の夜の静けさの下に、私を囲む神秘的な存在と交感を奏でている、私の心臓のやさしく鼓動する音楽を、聴くことが出来るだろう。遂に自由なのだ。金の心配もなく、愛し、歌ひ、死ぬことができるのだ。」
テフラと呼ばれる少女が、ゴーギャンに伴われて彼の小舎へ行き、彼のヴァヒネとなった。『ノア・ノア、或いはタヒチ紀行』はこの第一次タヒチ滞在に書かれた滞在記録である。今回の展覧会にはこの『ノア・ノア』の挿絵は充実していました。ゴーギャンのエクゾチズムの特徴は、彼の内部世界が既に用意されていて、それにふさわしい外的現実を(材料として)求めたことにある。このタヒチ滞在の時期に描かれた女は、多かれ少なかれテフラの面影を写している。そして主題は、牧歌的なものから、宗教的な主題へ、そして神秘的な主題へと移っていく。彼の象徴主義は完成の域に達し、タヒチに神秘を発見し、それを普遍なものに高めてゑがいた。
パレットをもつ自画像
1893年8月、ゴーギャンは憧れの島から惨めな姿(無一文に近い)でフランスに戻った。早速メット宛てに手紙を認めるが、拒絶的な返事が返ってくるのみだった。メットは代わりに家族の友人のシュフネッケルに宛てて「友よ、ひょっとしたらあなたは、ポールの口癖のように、私を、冷たくて、厳しくて、お金のことばかり言ふと、お考へになるかもしれない、しかし率直に言って、あれやこれやで苦労のたねは尽きないのです!」と書いている。野心と希望と期待とで成されたデユラン=リュエル画廊での展覧会は、一定の評価は得たものの、作品の売れ行きは予想に反した。ゴーギャンは深い挫折感を味わうことになる。相変わらず印象派の異端でしかない、と。追い討ちをかけるように、ジャワ女アンナとの不幸な生活、足首の骨折、そして梅毒感染が重なる。満身創痍、再びゴーギャンはタヒチに渡る決心をする。自画像『ゴルゴダにて』は、この当時の彼の心理状態を見事に写している。メットは「何より私が一番嫌なのは、あの人が自分を藝術の殉教者とみなしている点です」と。タヒチへの渡航費用を捻出するため。ドウルオ館で再び売立が行われた。この売立用のカタログの序文をストリンドベリイに頼んだ経緯は先に記した通りです。結局大した資金も用意できず、あのマラルメの賛辞のみを餞にタヒチに旅立っていくことになる。
第四章;
第二次タヒチ滞在は1895年7月から1901年8月までの6年間続く。その後更に原始的な生活、真に野蛮な生活を求めて、タヒチからマルキーズ諸島中のヒヴァ・オア島、即ちラ・ドミニカ島へ移る。そこで1年半を送り、1903年5月8日の朝、孤独の中に死ぬ。ゴーギャン、54歳であった。
健康状態の悪化がゴーギャンを襲う。ベットに横臥しているのが精一杯で、絵を描くこともままならない日々が続く。小康状態で描かれたこの時期の作品には沈鬱なトーンが目立つ。1897年4月、追い討ちを掛けるようにメットから最愛の娘の死を知らせる手紙が届いた。ゴーギャンは失意の中、自死を決意すると同時に、自らの絵画の集大成となる『我々は何処から来たか、我々とは何か、我々は何処へ行くか』を描き始めた。このゴーギャン最大の作品には、これまでゴーギャンが繰り返し描いてきた様々なモチーフが呼び集められ、人間の起源や生と死のテーマに対する哲学的な思索が表現されている。恰もゴーギャンはこの絵を描くためにこれ程の苦労を積み重ねてきたかのようである。この絵画にはゴーギャンの全てが含まれている。この大作の完成後ゴーギャンは自殺を図るが、未遂に終わる(1898年2月)。その後のゴーギャンの生活は、戦い終えて静かに死を待つ余生と呼ぶようなものではなかった。暗愚なフランス人支配者の搾取に喘ぐ原住民の代弁者の役を買って出て、ゴーギャンは政治新聞を刊行し、聖職者や官憲に無謀な闘いを挑みかかった。腐敗した文明との絶望的な闘いであった。しかしそれを続行するだけの財力と体力をゴーギャンは持ち合わせてはいなかった。「私は今や窮乏と、特に意外に早く私を襲った老年性の病気のせいで、地面に打倒されている」「全く野蛮な環境と完全な孤独とが、死ぬ前に、私の想像力を若返らせる感激の最後の焔を燃し、私の才能に結末を与えるであろう」と、1901年9月、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島へ生涯最後の旅を試みた。「此処では詩がひとりでに溢れて来る」。何枚かの絵を描き、そしてゴーギャンガ死ぬ直前まで筆を染めていたのは『雪のブルターニュ風景』であった。
我々は何処から来たか、我々とは何か、我々は何処へ行くか(部分)
世の中が芸術家と学者と大衆から成っている(私はそう考えています)と仮定するなら、芸術家ゴーギャンは余りに大衆からかけ離れてしまっていたのかも知れない。冒頭で取り上げたサバトは、「オルテガは、芸術家と大衆の乖離に芸術非人間化論の根拠を見出しているが、現実はこのまったく反対、すなわち非人間化しているのは芸術家ではなく大衆のほうかもしれない」と述べているが、この見解は首肯できる。芸術至上主義者ゴーギャンは大衆に期待し過ぎたのかも知れない。それがゴーギャンの悲劇の根底であろう。そうしてみるならゴーギャンは妻メットにも期待し過ぎていた。夫のまだ開かない才
能を信じて、夫からの仕送りを当てにすることもなく、5人の子育てにけな気に献身する妻が果たしているだろうか? 大衆はもっともっと生活することに精一杯なのだ。福永さんは、この点メットよりもゴーギャンよりな立場を取っているように思える。もしかしたら福永さん自身がゴーギャンに同一化していたのかも知れない。ゴーギャンは一貫して非人間化しているヨーロッパを離れて人間的な自らの芸術を達成させようと試みたに違いない。文明社会で人間的にあろうとすることの困難さを私たちはゴーギャンに垣間見ることになる。また文明社会にあって人間的であろうとすることが非人間的となるという逆説をも。
「ゴーギャン・コンプレックス」という術語が巷間に溢れた一時期がありました。43歳で妻子を捨てて藝術に投身したゴーギャンに因んで、家族を省みずに自らの遣り残したあるいは遣れずにしまった物事に邁進する中年の危機を捉える術語です。ゴーギャンの人生を見てきた今、このゴーギャン・コンプレックスという命名は余りに浅薄過ぎます。中年の危機は確かにあるのでしょうが、ゴーギャンは違う、と断言してよいでしょう。「家族と個」、「家族の中にある個」ということを思うのです。恐らく根源的には人間の場合、他の動物と同じように、家族の中にあって「個」は「個」として実現していくものではないか。あるいは家族は「個」の実現を育むものではなかったか。文明化の嵐は、「個」が社会の中で「個」になることを要請し、それとともに「家族」の存続を難しくしているのだと思えます。「非人間化しているのは大衆のほう」と言うサバトの主意はこのことだろうと思うのです。「家族」が失われつつあるいま、私たちは漂白の旅を続けるしかないのでしょうか? 私たちは何処へ行くのか?
「彼の内部には種々の対立矛盾するものが同時に存在し、分裂することによってますます研ぎ澄まされる。例えば純粋と卑俗さ、夢想と生活本能、強さと弱さ、楽天主義と絶望感、真面目と道化、上機嫌と憎悪、かうしたものが性格の中で交錯する。」と福永さんは、鋭い作家の目でゴーギャンを捉えています。そして劣等感とプライドという澱(おり)が彼を苦しませていた、と。
野生、野蛮と、周囲はゴーギャンを評しているし、また自らも自身をそう形容しています。確かにゴーギャンの人生は、オブラートに包まれたものではなく、剥き出しの人生となっています。メットはゴーギャンからは、彼自身の延長線上にある存在と見做され、別個の存在という認識を欠いています(self-object)。評価・賛同してくれる人を容易に信じ(例えば、ユイスマンス、ストリンドベリ等)、すぐにも理想化し、一方で予期しない批判・非難に対して脱価値化するので、関係が長続きしないし、喧嘩や仲違いにこと欠かない。これは私には、ナルシシズムの病理以外の何者でもないと思えるのです。ゴーギャンの人生を振り返りながら、私は境界性・自己愛性人格障害の人たちを重ね合わせていました。「親元での自立が一番優しい、楽」ということに思いを馳せるなら、恐らくゴーギャンはそのことを知っていて、家族の中で「個」となることを求め続け、それが実現するには熱帯でしかないと確信していたのではないでしょうか。
現実には実現できなかった訳ですが、彼は晩年の絵画の中でニルヴァーナの世界を描くことで「家族の中での個」を実現させていたように思えるのです。
「一人の人間の作品とは、即ちその人間を説明するものである」(ポール・ゴーギャン)
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