コラム19
THE DUCHESS   ある公爵夫人の生涯  

 キーラ・ナイトレイの魅力と「イギリスを震撼させた衝撃のスキャンダル」という新聞広告のキャッチコピーに乗せられて、映画『ある公爵夫人の生涯』を観ました。「故ダイアナ元妃の祖先にあたるジョージアナ・スペンサー。デボンシャー公爵夫人となった彼女の愛と葛藤とは?」ということがこの映画のテーマなのか? もうちょっと違った視点からみてみようと、コラムに取り上げてみます。
 1774年、英国。スペンサー伯爵家の娘ジョージアナの縁談が纏まった。相手は最も裕福な貴族のひとりであるデボンシャー公爵ウイリアム・キャベンデイッシュであることが、母親からジョージアナは告げられる。ジョージアナ17歳のことである。公爵と母親が婚姻の交渉をしている折りしも、ジョージアナは友達と遊んでいる真っ最中であった。今風に言えばお見合いパーテイみたいな様子で、ジョージアナを含んだ6人の女性が、6人の男性を競走馬に見立てた徒競争を催し、どの馬が一着になるかを賭けた遊びの只中だった。映画の冒頭は、家の中では「婚姻の交渉」が、そして屋外では「遊びの場面」が同時に進行する描写で切っておとされます。いわば「内」と「外」との対比が見事に描かれています。映画も終わり近くなったところで、外で遊んでいる子どもたちを窓越しに眺めながら公爵がジョージアナに向けて「子どもは自由でいいな」と呟くシーンが、この冒頭のシーンと呼応しているように思えます。



 しかしそれはさておき、物語の先に進みましょう。ジョージアナは遊びの途中で、母親から屋敷内に呼び戻され、婚姻が成立したことを伝えられます。そこから一気に映画は、ジョージアナと公爵との結婚式、初夜、結婚生活へと展開します。つまりジョージアナは遊びに夢中な子ども時代を、母親の命令(期待)によって一気に(途中で)終わらせられて、大人の世界に飛び込んでいくことになります。結婚パレードに集まった民衆の数に驚きを漏らすジョージアナに公爵は「すぐ慣れるから」と耳打ちします。類い稀な美貌と最新のファッションを身に纏う公爵夫人は民衆の憧れと同時に誇りとなります。だが、結婚し、繰り広げられる世界(生活)は、子ども時代に思い描いていたそれとは大きく違っていました。愛のない結婚、ただ嫡子をもうけるためだけの結婚、そしてセックス。無表情で犬ばかりを可愛がる夫、夫の度重なる情事、挙句夫が外で生ませた子(シャーロット)の世話を押し付けられ、更には自ら産んだ子が女の子だということで無視されてしまう。それでもジョージアは痛々しいまでに凛として自らの役割を果たそうとします。自ら選び選ばせられた役割を必死に果たそうとして、継子と実の娘たちをけな気に育てます。
 しかしこのけな気さにも限界が訪れます。6年が経ち、次女も生まれ、わが子同然に育てたシャーロットを含めて三人の娘の母となったジョージアナは、保養地バースでエリザベスと出会います。エリザベスは離婚し、三人の息子の親権を夫に奪われ、経済的窮乏状態にありました。ジョージアナは夫の承諾を得て、エリザベスを屋敷に呼び入れます。エリザベスはジョージアナの悲しみを当初共有してくれ、慰めてもくれる存在でした。「英国中で一番愛されない妻」、「愛のない結婚生活」にエリザベスは潤いを齎してくれましたが、破局へ向けての舵が切られることになります。観劇、政治運動、ギャンブル、そして酒。劇場でジョージアナは子ども時代に知っていたチャールズ・グレイに再会します。チャールズは民衆を代表する政治家を目指していました。エリザベスに煽られて、その後ジョージアナはチャールズに接近するようになり、チャールズの応援演説を引き受けるようになります。チャールズからの愛の告白と同時に、ジョージアナはエリザベスが夫と情交を結んでいる場面に遭遇します。ショックを受けたジョージアナは夫を激しく詰ります。しかし夫は、跡継ぎを生んで公爵夫人の役割を果たせ、と。奇妙な三角関係が始まり、屋敷はピンと張った緊張に包まれていきます。それなら私とチャールズの関係を認めて欲しい、と言うジョージアナに夫は怒り心頭に達します。男の子を産め、と。

 男の子を産み、公爵夫人としての役目を果たしたジョージアナは、抜け殻のように生気を失っていきます。酒に溺れ、振る舞いもだらしなくなり、その変わり果てた姿は、別の意味で社交界の注目を浴びることになります。社交界つまり世間は公爵家のことは全てお見通しなのです。苦悩と抑うつ状態に陥っているジョージアナを、エリザベスが密かにお膳立てしてチャールズに引き合わせます。チャールズとの激しく燃え上がった密会があり、火の点いたジョージアナはバースに保養に行くと夫を偽ります。バースで熱情的でかつ情欲的なチャールズとの愛の日々を重ねます。スキャンダルが持ち上がり、夫と母親が娘たちからの手紙の束を携えてジョージアナを連れ戻しに来ます。
 激しい葛藤状況の中でジョージアナは泣く泣く公爵邸に戻りますが、ジョージアナはチャールズとの子を身ごもっていました。公爵は、「田舎に行って出産し、赤ん坊はチャールズの実家に渡すよう」命じます。エリザベスは公爵に逆らって自らジョージアナに付き添って片田舎に行く決心をします。

 出産し、その赤ん坊をチャールズの父親に託した後、再びジョージアナは邸に戻ります。余りにも苛酷な、正に身を引き裂かれるような別れの場面です。憔悴しきって戻ってきたジョージアナを公爵は初めて優しく労わります。このシーンで、先に述べた「子どもは自由でいいな」という公爵の言葉が語られるのです。何とか元気を取り戻したジョージアナは、夫とエリザベスに伴われて、社交界に復帰します。まるで何もなかったかのように。物語はここで終わり、映画はその後の主人公たちの顛末をテロップ風に文字で綴って終わります。ジョージアナの死後、彼女の遺言に従ってエリザベスが正式に公爵夫人になったこと、チャールズは英国首相になったこと等々。

 確かにこのストーリーは故ダイアナ妃を彷彿とさせます。また篤姫の物語やわが国の皇室にも通ずるものがあるでしょう。ロココ時代の衣装の素晴らしさ、しかしその華麗な衣装の下には幾重にも紐でがんじがらめにされた窮屈な身体があり、まさにそれはその時代の女性の置かれた位置を象徴しています。因みに、ウエストがくびれていることが一番のセックスアピールになるとか。ジョージアナが好んだ紅茶は、彼女の愛するチャールズ(グレイ伯爵<アール・グレイ> )に因んで付けられた、と。こういった秘め事としての味わい深さは確かに現代には失われてしまっているのかも知れません。しかし私はこの映画を、十分現在にも通じるものとしてみています。つまりそれは「うつ病の発病過程」という点においてです。うつ病はどのようにして発病するのか? 

 うつ病の病前性格は古くより執着気質(下田)、メランコリー親和型性格(テレンバッハ)と呼ばれています。しかしどうやら現代ではこういった性格に基づくうつ病だけでなく、うつ病の軽症化が唱えられ、現代型のうつ病(デイスチミア親和型、非定型うつ病、双極U型等)が大きく注目されています。内海健さんは「大きな物語」の衰弱について触れて、次のように書いています。「われわれは社会に入る際に、主体としての死を体験するのです。というのも、一度社会に入ってみなければ、それがどんなものか分かるべくもなく、われわれはそれとわからぬまま、一瞬にせよ、身を投げ出さなければならないからです。<中略>主体はまずは社会に帰依しなければなりませんが、いったん帰依した後は、その主体となるのです。」(『うつ病の心理』 誠心書房 2008)この主体の死から再生への転化を支えていたのが「大きな物語」であったが、現代はこの「物語」が不在となっている、と。
ジョージアナの物語をみてみましょう。彼女は子ども時代を駆け足で通り過ぎて、大人の世界に入っていきます。これは「母の欲望」あるいは「社会の要請」従ったまでです。この点ではジョージアナは、メランコリー親和型の人たちと同じように、社会に一心に同調しようとします。うつ病の人たちの性格特性は、基本的には同調性格です。社会全体の秩序を志向し、責任感に強く、几帳面さが目立ちます。ジョージアナの病前性格がどうなのか(自己愛性格を兼ね備えているようです)は論議のある所ですが、いずれにしても同調の渦の中に巻き込まれていきます。必死に社会に同調し、役割を果たそうとします。
確かに公爵は性格からしたらスキゾイド的ではあり、ジョージアナの適応への動きを支えてはくれませんでした。しかし何よりもジョージアナにとって痛手となったのは、役割をまっとうできないという傷みと対象喪失なのでしょう。同調が失敗しかかった時、ジョージアナにはかつての遣り残された局面が顔を覗かせ始めます。行動化が目立つようになり、愛人との性的逸脱、飲酒、ギャンブルの生活となります。これらは行動を通しての欲求充足的なものです。この状態はメランコリー型のうつ病ではあまり生じないものであって、現代型のうつ病に特徴的なものです。確かに結婚が早すぎて愛の何かをも教えてもら
えなくて、やっと本当の愛に目覚めたからと言うことも可能でしょう。また『家』と『個』との葛藤という視点で捉えることは、既に時代遅れなものとなっています。それらのアナクロニズミ的で、スキャンダラスな観点ではなく、社会の中で『個』としてどのように生きるかということの重大さを巡った視点に立つ必要が現代では問われます。統合失調症が『個』としての自己の存立を巡った問題であるとしたら、うつ病は適応の問題であるように思えます。私には矢張り社会への同調に失敗(失敗といっても、ジョージアナは何とか役割を果たしています。その役割を果たし終えたとき「荷下ろしEntlastung」的に発病しています。)し、そして対象喪失という辛苦を嘗めたからこそ発病したと思えるのです。

 もうひとつこの映画で面白い点があります。それは社交界や民衆に代表される社会のあり方です。社交界はジョージアナの生き様全てを知っていたのです。しかしジョージアナの一連の行動が終息した後、何もなかったかのように、かつてと同じようなやり方でジョージアナを受け入れてくれています。彼女が統合失調症なら、恐らくこの「全て分かられている」という状況には戻れなかったでしょう。彼女が戻れたのには、「どうせ分かりっこない」という心性(土居健郎氏の言う)が備わっていたからです。この点でも彼女はうつ病圏にあったと言えます。夫である公爵はどうだったのか? スキゾイド心性と一旦は書きましたが、彼は正に自らの傷を抱えながら自らの役割を全うした訳ですから、「大きな物語」に支えられながら社会に同調した人なのでしょう。そうでなければ、「子どもは自由でいい」とは言わなかったでしょう。しかし同調が勝り、自らの生気を失ってしまっていたことは紛れもない事実です。慢性のうつ病状態にあったとも言えるかも知れません。しかし晩年の彼はうつ病から快復したに違いありません。

 この映画の中で描かれる社会は、われわれが社会化することを用意してくれていました。ジョージアナが大人になることを優しく見守っていてくれました。エリザベスという存在は大きな位置を占めています。この映画の中では社会への道先案内人、あるいは導師として描かれています。しかし現代はどうでしょう? 写真週刊誌に代表されるマスメデイアは決して優しくないようです。スキャンダルを暴き立てることによって、どうやら私たちを排除しようとしているようです。この文化風土の中では当然にも、ダイアナ妃やわが国の皇族の悲劇は起きてしまうのかも知れません。『裸の王様』について思いを馳せてみましょう。「王様は裸だ」と言えるのは矢張り子どもだからであって、大人たちは敢えて言わないのです。しかし私はこれ以上この話題には触れないでおきましょう。社会の一員として、「王様は裸だ」と言わずに、優しく成り行きを見守っている存在でありたいからです。

                         2008.5月 記






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