

コラム15
ミラーニューロンってご存知でしょうか?元々猿はヘビを嫌います。野生の猿は蛇を見ると逃げ出します。ところが、動物園で飼育された猿は蛇を見ても逃げ出さないそうです。その動物園で飼育された猿を野生の猿の集団の中に入れると、その猿は蛇を怖がるようになるようです。このメカニズムにミラーニューロンが関係しているといわれています。つまり周囲の状況を察知して、周りの反応様式から自らの取るべき行動様式を作り上げることにこのミラーニューロンが一役買っているようだということです。これは便利なものです。一緒にいると知らぬ間に似てくるとか、同一集団が同じような仕草をするとか、皆これらは生物の宿命かも知れません。同じ行動を取らないと宿敵にやられてしまうとか、異質なものは排除しないことには自分たち同類の存亡の危険があるとかの、種を守るための本能的な機能かもしれません。勿論私たち人間もヘビを好みません。中にはヘビ大好きという人もいますが、それは少数でしょう。ヒトがヘビを嫌うのは本能的なことなのでしょうが、ヒトがヘビを嫌うようになるのには、猿の場合とは違って、もっともっと言語やイメージを媒介してのコミュニケーションが関係しているのでしょう。猿のコミュニケーションがヒトほど優れていないにしても、恐らくヘビを怖がりながら表情を強ばらせ、何らかの声を発するでしょうから、猿とてミラーニューロンを通してだけではなく視覚・聴覚を介して、ヘビへの嫌悪感を周囲に伝達しているのでしょうが。いずれにしてもミラーニューロンとコミュニケーションは切っても切れない関係にあるようです。

母親からの適切な育児によって言葉を持たない赤 ちゃんが言葉を習得する、その過程にミラーニューロンが大きな役割を果たしているという研究が報告されています。ここではしかし、あまり難しくならないように述べてみましょう。「学ぶ」ことの語源は「まねび」にあるようです。「まねび」は「まね(真似)」の動詞形です。つまり私たちが「学ぶ」ことは「まねする」ことから始まります。字を習うことを「習字」というのも、この流れです。「習うこと」は「倣うこと」であり、先の例をまねし、その通りにすることなのです。ミラーニューロンは鏡のように活動することから名づけられました。他なるものの行動をこころの中でリハーサルすることで、他なるものと同じ体験を追体験することができるようになるわけです。共感とか同情、傷みを汲むこと、あるいは喜びを共に分かち合うこと等は真似ることから始まっているのでしょう。「悲しいから涙が出るのか、涙が出るから悲しいのか」という古の論争も、この一面があるのかも知れません。もらい泣きをしているうちに、相手と同じように悲しくなるということを、私たちは誰で一度ならず体験していることでしょう。 私は精神医学をどのように学び、習得してきたのかと思いを馳せてみましょう。勿論沢山の患者さんから学ばせて貰い、また諸先輩や、論文や書物を通して教えられてきました。しかしもう少し体験に即して振り返ってみるなら、それはもう真似することから始まり、真似することの連続だったようい思います。先輩がやっていることの真似、先輩の考え方の真似、あるいは何人もの患者さんの真似(これは悪気でやるのではなく、患者さんの気持ちがうまく摑めないときに、意図して身振り手振りを真似てみるのです。するとその時隠されていた気持ちが実感できたりします。)をしてきました。論文や書物を読み、「アツ、これいいね」と思えたらそのやり方を真似したりしていました。そういった中で徐々に自分なりのやり方ができてきたように振り返っています。お前が一番真似した人は誰? と訊かれるなら、即座に私は中井久夫先生の名を挙げることになります。中井先生については須賀敦子さんのコラムでも触れました。先生の天才振りについてはいくつものエピソードがありますが、天才とは中井先生のような人のことを言うんだな、と私は思っています。神田橋條治先生は中井先生を「ウルトラマン」と呼んでいますが、今日の精神医学は先生の名前抜きには語れないように思います。
中井先生のお仕事は大きく4つに分けられるでしょうか。 ①統合失調症の発病前段階から発病、慢性化、寛解といった発病過程論。
この研究の伏線としての、コンラートやサリバンの紹介、そして風景構成法や絵画療法の治療への導入
②サリバン研究に始まる精神分析学全体を視野に入れた治療論。
しかし先生はどの学派にも属さず、自らを折衷派と言っていました。
③PTSDおよび解離研究。
ご存知の阪神大震災がこれらの研究の出発点となったようです。大震災では神戸大学にいらっしゃった先 生は、神戸の精神障害の方たちや外傷性精神障害の方たちの救済の司令塔としての役割を果たしました。『昨日のごとく 災厄の年の記録』(みすず書房)が参考となるでしょう。
④詩の翻訳家としてそしてエッセイストとしての仕事
カヴァフィスの詩の翻訳に始まり、現代ギリシャ詩の日本への紹介。そしてヴァレリーの「若きパルク」の翻 訳。これは勿論フランス語から日本語への翻訳です。京都大学医学部の学生時代、ギリシャ語学科の学生 に先生はギリシャ語を教えていたそうです。みすず書房から先生の一連のエッセイが刊行されていて、一時期それらは私の枕頭の書となっていました。
精神医学の臨床にに身をおきながら、これだけの仕事をこなしてきた人を私は寡聞にして知りません。どの一つをとっても完璧なまでに非の打ち所がないものばかりです。しかし私はあるところから中井先生に近づかなく、いや正確には近づけなくなっていました。それはその影響力のあまりの大きさに自分が耐えられなくなっていたからです。大袈裟に言えばこのままでは自分が自分でなくなってしまうような感じがしたからです。それが私の分相応だったように思います。 この話をここで書いているのは、以下のことを伝えておきたかったからです。つまり私たち人間は影響を受ける生き物であり、影響を受けて成長するように宿命づけられています。脳研究が花開き、遺伝子が解明され、全てが生得的に決定づけられているかの論議が横行しています。これは従来からの「遺伝か育ち(環境)か」という問いに、まるで「遺伝」という答えを出そうとしているかの勢いです。「遺伝」であれば救われる、みたいな風潮は確かにあるし、否定はしません。統合失調症の子を持つ親御さんたちは、この「遺伝」であるという事実によって救われました。自分たちの育て方がまずくて病気になった訳ではないという思いは、親たちを解放し、その後の統合失調症の方たちの予後を格段に改善させてくれました。精神医学がここまで来るのに凡そ100年を要しましたが、大きな成果だったと思います。しかし病の全てを「遺伝」で括るのは危険でもあります。おそらく「遺伝か育ちか」という問いは、脳研究がどれだけ進んでも永遠のアポリアだろうと私は思います。両者はあざなえる縄のごとくに絡みあいながら、事態を決定しているのでしょうから。えてして私たちは自己責任を逃れたがります。どちらかに偏ることなく、事態を見続ける姿勢が必要なのでしょう。同じことが「影響」ということにも言えそうです。人間は影響を受けるべく生きています。だからこそ「影響されない」という局面が生きてきます。影響されながら自分であり続けることとか、自分を見失うことなく影響されるという在り方が必要となります。精神を病んでいる人たちは往々にして影響され易く、また影響されて自分を見失いがちです。時には「影響されない」練習をして欲しいものです。
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